あがた森魚の今週の日記より紹介してまいります
歌は歌なんだ。
ここのとこ、雑多な作業の合間を縫って曲作り。
「どんなときにどのように曲作るのですか?」
ありきたりな質問だが、時々聞かれる。
明解な答えはない。
イメージが浮かぶと、
メロディでも言葉でも、どんどん浮かぶ。
けれども意外と大変なのが、詞、曲の締めくくり。
全体の成り立ちを、どのような形状に収めるのか。
陶磁器の形状を、ろくろでどう整えていくのか。
体操競技で、最後どう着地するのか。
のようなプロセス。
こねかたによっては、なにものにでもなる。
着地次第では、丹精を込めたものが台無しにもなる。
けれども、歌は歌である。
正鵠を得ないと器として役に立たないとか、
芸術品として身の置き所がないというのでもない。
スポーツのように、順位や、勝ち負けで判定されるわけでもない。
もちろん歌にだって、
天才肌のよくできた歌もたくさんある。
けれど、歌って、なんだか、
「完全なる不完全」こそが、
歌かなって気はする。
禅問答風に言うと、
完全を目指して、敢えて不完全。
完全を、叩いて壊して敢えて不完全。
わたしの師匠たちは、何故かみんなそうである。
純正品や美人画を目指してるわけではない。
敢えて、壊す、崩す、破る、冒す、外す。
歌自体が、純粋であり、凶暴であろうとする。
歌自体が、憧憬であり、けれどレジスタンスでありたくてならない。
ひとつはっきり言えるのは、
歌は、鼻うたで歌おうが、カリスマが歌おうが歌だ。
そして、数分で終わる。
(カリスマの鼻うたが神業かも。)
(その意味で、師匠Dylanは、いつも鼻うたなので完全です!!)
絵画が描けたらといつも思う。
しかし、とある因果から、音楽をやるはめになった。
歌は、音楽は、3分歌ったら影もかたちもなく消える。
つまり、時間軸の表現。
永遠メガロマニアのオレが、(なぜか絵画ではなく)
刹那を実証する「歌」を選んだのはなぜだろう?
うたは、3分あれば、せつなく、終わる。
だからまた聴きたくなる。
また歌いたくなる。
また会いたくなる。
ううう……!!
(もうすこし?)
そう、こうしうて、
頼まれもしない日記を長々書いて、時間と労力を無駄使いしてるのも、
ある意味、歌う意味への反抗、歌う営みからの脱走なんだな。
歌を神聖化したくて、
同時に、自分の歌に悪たれをつかずにいられないような。