あがた森魚の今週の日記より紹介してまいります
漂流記
日中、スタッフと長電話したり。
まあ、雑務も、多々あって。
実時間、十あるとおもっても、五くらいは雑務や、伝達業務などで消えていく。
まあ、のんびりやればいいさ。
この日記でも、
今回の、新作アルバムや、ツアーのことにあまりとらわれずにとおもうが、
デビューからの40年の年月のことについ意識がいくと、少なからずそれは、
長い旅のプロセスをも、連想してしまう。
今回のアルバムにも登場の「海底二万哩」だが、
小学二年の小樽の街での映画「海底二万哩」体験は、
やはり強烈だった。
海底の潜水艦の主人公ネモがもつ
空虚感もさることながら、
なせ、果てしなく深海を潜り続けるのか。
もう一つ、父から聞かされた、
「ジョン万次郎」の物語。
土佐から船が漂流し、鳥島に漂着し、
アメリカ船に助けられ、11年後に、
日本に帰着した万次郎の冒険潭。
生きていることが、
漂泊することがそのまま
「超現実」であり「エキゾティツク」であると、
認識させられた。
(その、超現実に極まりたいともおもうではないか)
自分が今60代半ばに差しかかっても、
その漂流に似て、
まだ先が見えない。
万次郎が、鳥島にたどりついたときの命からがらの生きた心地、
外国船が通りすぎたときの落胆、救出されたときの歓喜、
アメリカなんぞ存在すら知らなかった国への上陸、
幕末日本への帰還。
ぞくぞくしてくるが、
いかな、偶然の巡り合わせとはいえ、
そんな冒険に富んだ人生をおくれた万次郎を羨ましくもおもうが、
人それぞれ、与えられた自ずからの役の最善を尽くすしかない。
(ちょとまて)
今般のわたくしの、
デビュー40年のツアーは、
万次郎でいえば、鳥島にたどりついたとこなのか?
それとも、アメリカにたどりついたとこなのか?
さもなくば、幕末の日本に帰還するとこなのか?
正直、今回はささやか、でも大きな節目です。
けれども、節目とは、節目なのです。
もちろん、この40年を今回のツアーで、
存分に聞いてもらいますが、
この節目のあとに、長い旅が続くのです。
僕は、その第一ストロークを、
「2010年代」と、認識しますが、
どうつんのめろうが、
途中で、どうズッコケようが、
先ずは、「2010年代」の終わりまでは、流れ着いてみるのです。
このツアーを実のあるものにすることは、言うまでもなく、
実は、そこから先にある、凪(なぎ)のような、
心和む、いや、じつは嵐の予感の、
何とも、穏便ならぬやもしれぬ、
2010年代を、どう漂い始めるかが重大事ですね!
でも、わかってるんですけどね。
大方の日は、
あまり遠からずの場所へ、行けるとこまでいって、
20人から30人ぐらいの人の前でうたうのです。
普通の、お勤めの人のように、
ないしは、流しのゴローのように、
週、五日は歌いましょう。
正直、この十年、それをやりつづけたい。
先ずは、オレの「2010年代」そこから始めたい。
この話、誰にどんなに、真剣に話しても、
だれも、まともには、受けてくれない。
例えば、そのやりかたが、
自分が、今後、基本的に、
もっとも健全で、もっとも完全に、
歌手として生きる方法なんだ、
ということを、誰あ〜れも理解なんかしてくれない。
普通の人が、週五日働くように、
自分も、週五日歌えばいいのです。
もちろん、
そろそろはじまる、
札幌から、東京までのツアー
ぞんぶんにぞんぶう〜んに歌いきりますけどね。