あがた森魚の今週の日記より紹介してまいります
夜半の寝覚めです。
ちょっとだけ、体を堅い床の上に、
横たえてみようと、だが、
いつのまにねむってしまったのか、
螳螂が斧をかまえたままのようなかたちで、
フローリングの床の上に。
一時間ほど寝たでしょうか?
ふと目覚めると、夜の11時半だ。
夜半の寝覚めって、
若い頃、よくあった。
陽の高い時間から物見遊山して、
観たり聴いたり飲んだり騒いだりして、
気がつくと、記憶の途切れた場所と時間に
放置されている。今何時ここは何処?
何処からともなく月の光が差し込んでいて、
一瞬、屋内か、野外かもわからない。
遠くで、人の笑い声がするような、
獣のたけるかすかな声か?
山岳公園南丹沢を縦走したその夜半か。
嵯峨の化野あたり黙々とうろついた夜半のことか。
何だか幾つかの光景がフラッシュバックする。
忘れてた出来事や光景や言葉や仕草が、
駒跳びのフルムのはしっくれのように、
網膜だか脳裏だかを、
つかの間、かけ足で走り去る。
(なんだかまだぼけっとして夜半 つづくのかな?!)
………………………………
翳(かす)み眼のまにまにぼやける光景か、
あれこれが、さだかではない。
夜毎の月の大きさや、輝きや、
気配さえ、一夜一夜違って見えるように、
最近は、日々の気配、印象、記憶が、
実にまちまちだ。
それは、年齢的、体力記憶力の問題でもあるけど、
自分は、その、刻々の日々の一夜一夜の空間の手触りの違いが、
だいぶ幼い頃から好きだった。
それは、さっき言った駒跳びのフィルムや、プリントの焼きの斑(むら)や、
網膜であるスクリーンのドットの大小が強調されたかのような
雨降り映画館で映画を観ているような感覚。
萩原恭次郎の「死刑宣告」の活字がでこぼこするように、
誰だか爆弾マニアの脅迫状の文章が、
「sExPisToLs」のジャケット文字のように継ぎはぎだらけなように、
額装も、ヒビ割れも、ページの色褪せ具合も、毎日まるでまちまちなような、
そんな日々の手触りが好きだ。というより、毎日その印象、
昨日も確か観たはずの同じ光景の印象が何故か違う。
その感触を体感することの、自動エクスペリメンタルな至福。
既視感と、既視感と、既視感と、既視感とが、
レールの継ぎ目のスクラッチのように、
スキップしながら幾つも幾つも連なって、
踊っては近づき、踊っては遠ざかっていく。
やはり、それは、現実ではなく、
厳密には駒落ちして映しとられた映画かのように。
(うむうむ!)