旅人である私は、どこかで自分の家がうとましくある。
広場や公園(パルコ)や丘の上に建つアクロポリスのようなものが嫌いではない。
少年たちの騎士道的有志結社が、隠れ山城や地下要塞に拠って、
作戦会議を密議するさまも嫌いではない。
「架空の城塞」に拠る「空想する少年騎士」たりたいという「希求」「妄想」は、果てしない。
「MorioLoggi」は、滑走、滑空し続ける「架空の城塞」であり続けてほしい。
私は幼年、少年であるが、同時に成人、老人であるように、
タルホ流にこじつければ 、この私もまた
「彷徨する孤児にのみ賦与された城塞」に拠ろうとする者だろう。
しかし、 どのような遠方にあるにせよ、いかな決戦場をすら選ぶべくもないが如くに、
そこに踏みとどまってはならない。いや、踏み止まることは出来ない。
それが「滑空の城塞」に拠ろうとする者の掟だろう。
そこに拠るのは、無国籍部隊の一員たる「絶対的孤児」ないしは、絶対的孤児への憧憬者であるだろう。
我々が、おそらくは「殺戮」や「溺愛」や「差別」や「支配・被支配」等々によって
圧縮された現実の城塞から逃れられない者であるとしたら、「滑空の城塞」に拠ることは、
絶対的にありうべくもない「絶対的孤児」であろうとすることへの激しい渇望からしか始まらないだろう。
ならば、「ここ」から「そこ」へと滑空せんとする我らが滑空のロッヂへといざ集わん。