あがた森魚の今週の日記より紹介してまいります
「またここであえる?」
@■2011年08月02日(火)
みなさま。
おはよう。
星を観に行く気分、
現実には、そんな悠長なものではないのですが^^。
毎日、タルホの「薄板界」さもなくば、朔太郎の「猫町」なみに、わき見とみち草の不連続な連続。
だが「その日に限ってふと知らない横町を通り抜けた」のではなく、その日もまた「ふと知らない横町を通り抜け」続けている。
わたくしにとって子供とはなにかというと、武井武雄や初山滋の「コドモノクニ」や「キンダーブック」の中に純粋培養された、そのことがすでに「日常を超越して日々遊ぶ」状態のイキモノなのだということ。
自分が、小樽の町ないしは青森の町で見た子供達は、戦後の昭和であることがすでに、全て「非日常」だったのだ。あまりにも、究極に、あまりにも完全培養に。
では、2011年「非日常」の子供とは?
福島自体にいることの、非日常とは?
福島から旅に出る、知らない子供達が知らない子供達と遊ぶ非日常とは?
昨夜の、函館郊外大沼でのコンサート。
ふくしまキッズの夏季林間学校の北海道ツアー。
今回の、災害で「室内待避」を強いられている子供たちに、
旅をさせて、子供らしくあそんでもらおう、という趣旨の夏期ツアー。
この、わたくし、たまたま、今夏も、東北北海道への旅を予定していた折から、
昨日の、函館・大沼での合流。
函館映画祭で交流のある寺脇研さんとの関係で、
昨日の、大沼での、子供たちとのであいとなった。
昨日であれ、明日であれ、
その日もまたふと知らない横町を通り抜け続けているわたくしにとって、
昨夜もまた、めったにはであえない、やや特別な、一夜ではあった。
「昨日」が「今日」が「明日」が、
彼ら一人一人にとって、
どのように、「特別な一日(一夜)」であっただろう。
この春以降、全ての「一刻」が、半強制的に、非日常におかれている彼ら。
わたしと、彼らは「ふと知らない横町を通り抜けている」同志で、ありえるのだろうか?
わたしと、彼らは「ふと知らない横町を通り抜けている」同志で、昨夜、出会えたであろうか?
思うに、「一刻」「一刻」このわたしも、あなた(彼ら)も、それぞれは、
日々を生きていく。どなるのか?
「昨日」「今日」なのか、遠い過去なのか、遠い未来なのか?
どこをどうやって生きていくのか?
「ゆうべ」は、よかった。
明日は、明後日は、遠い未来は、どこへどうやって生きていくのだ。
函館郊外にて、昨日初めて、北海道に来た子供、
明日、福島に帰る子。ごったにいて、
たのしそうに、歌ったり、手拍子してくれる子供、
カヌー漕いだり、魚とりしたり、野歩きしたり、
炊事したり、アウトドアや、予期せぬ共同生活やらで、
もうくたくた、半分眠っている子もいる。
約一時間、彼ら(ほぼ小学1〜6年生)や、引率の一同らと、
歌った(遊んだ)のか、歌って(遊んで)もらったのか。
ふと知らない一夜/一刻が通り抜けていった。
終わってから、
一人の男の子がそばに寄ってきて、
「またここであえる?」
と、聞いてきた。
「それはわからないなあ、
ぼくもここにいるわけじゃないから」
と答える。
「どこの小学校からきたの?」
と聞くと、
「福島の庭坂小学校からきた」
と彼は言う。
すると、隣にいた別の子は、
「島川小学校から来た」
という。
僕は、大槻小学校、私は赤井小学校、僕は菊田小学校……
と続く。
いつか行けたらいくよ……。
としか答えらえれなかったが。
最初に、熱心に聞いてきた彼の、
「またここであえる?」
の意味の本意を、もっと、
じっくり聞いておくべきだった。
どのようにも、そのようにも、
時間は、刻々と過ぎていく。